あかべこ日記心の旅「べべババ闘病記」

平成11年弥生之事

ベベパパこと森みゃお記す(ベベパパとは?答えは前のページ参照!)

<序章・腫の起源>

 一年前の春のこと、一本の電話が飛び込んできた。京都の姉からで、おろおろした口調で緊急の事態が察せられる。
「おかあちゃんが入院したで。意識不明や。どないしょう!?」
どないもこないも全く事態が把握できない電話の内容である。
「だから、なんで入院したんや?どんな状態なんや?」
「そやから顔が腫れ上がって意識不明になって入院したんや。救急車で入院したんや。」
「もうちょい落ち着いて話しや。ちゃんと状況を説明せななんにもわからへんやろ?!」

「うえええええ、ふええええ・・・・」

なんとか落ち着いてから徐々に聞き出したところによると、べべババこと母親がその日の朝、差し歯の治療に歯科医に行ったのだそうな。その時の下顎部位の奥歯の処置が悪かったらしく、帰ってきてからすぐに高熱を発し倒れてしまった。
しかも、意識のなくなっている間に顔から頸にかけて猛烈に腫れ上がり、殆ど元の人相が分からないほどになったのである。しかも夜になって家族が帰宅して、二階に上がるまで分からなかったのだ。もし発見されていなければ、その時に既に死んでいたかも知れない。暗い部屋の中で異様に腫れ上がった「物体」を見つけたとき、姉は化け物かと思ったのだそうな。しかし、それが母親のカフカ的メタモルフォシスと分かった時は腰をぬかさんばかりに驚き、大慌てで救急車を呼び病院に移送したのである。病院で母親の意識が戻ったのはほぼ一日経ってからだった。40度前後の高熱と倍近くに腫れ上がった頸は1週間近く続いたらしいが、その時のリンパ腺の炎症が今回の腫の起源として深く根を下ろしていたのである。

<その1.メタモルフォシス>

春の椿事が治まったのは夏頃だった。カフカ的変貌は治まったものの、喉元にエイリアンの卵を産み付けられた如くそら豆大の痼りが取り付いていた。痛みはないものの微熱が続き、床に臥せる日々が続く。元々気丈な母親だけに、書道と華道の教室の時は起き出してお弟子さん達の指導にあたっていた。その頃、そら豆大の痼りはピンポン玉大になったり縮んだりして当にエイリアンの卵の如く胎動を繰り返していた。以前からキチンキトサン製剤やプロポリスなど健康食品を片っ端から服用しており、更に飲尿療法を信じて毎朝自分の尿を飲んでいたらしい。その効果かどうか定かでないが、ともかく喉元の卵は付かず離れずの状態でいたのである。そして暮れに京都に帰った時、痼りはあるものの全く普段と変わらぬ状態の母親の姿がそこにあった。どうも私の前でだけは元気な姿を見せていたいという息子を思う母心なのだろうか。私としては常に姉からの情報を仕入れているので最悪の状態を聞いて知ってはいるのだが、現実としてのメタモルフォーゼを見ていないので悲惨な状態の母親の姿が想像出来ないのである。写真でも撮っておけばいいのだが、誰もそうはしていない。だから、私の目の前にいる母親はいつもの元気な母親なのである。

暮れの28日にあかべこGSを駆って京都に帰り、翌日北山の花背の山中にある巨大杉を見に行ったのだが、元気なら母親も行きたいとのことだった。とてもとても80近いお婆さんが登れるような山ではなかったのだが、撮ってきたビデオを見て大いに興味を示していた。その時は言われなくては気が付かない程の痼りだった。正月3日には再びあかべこGSで横浜に戻ったのだが、私が京都から居なくなった途端熱を出して寝込んでしまった。やはり息子の前だけでも元気な姿でいたいという気持ちの反動で臥せてしまったようだ。そして、一月半ほど経つとそら豆大のものが何と握り拳大まで巨大化してしまったのである。

<その2.告知>

3月10日の午後のことだった。出張中で仙台市郊外の川崎町にある「みちのく公園」に居たときのことだった。小雪が舞い寒風吹きすさぶ戸外で突然携帯電話が鳴った。沈んだ声の姉からだった。自宅治療ではどうしようもないほど腫れ上がったため入院させることにしたとのこと。そして、私が長男であるから、これから覚悟して医師の話を聞くようにと電話を代わったのだ。電話に出た若い医師は、母親の書道の弟子でもあり、普段から家族ぐるみの付き合いをしている縁から、この1ヶ月ほど点滴等自宅で治療を続けてくれていたのである。その彼が言うには、自分はいろいろな薬を試してきたがどれも効果がない。最初は良性のリンパ腫だと思っていたのだが、どうも悪性の腫瘍であるみたいだ。今後治療を行うに当たって、今は患者本人の意志を尊重する上で、QOL(Quality Of Life)の重要性から敢えて延命治療はせずに自宅で静かに待つ。などともう完全に治らないガンで、余命幾ばくもないかのような口調で告知されたのである。非常なるショックだった。寒風の中で立ちすくんだまま、体の力が抜けていくのを感じた。電話を代わった姉も涙声だし、こちらも涙が出てきたが、冷たい風ですぐに乾いてしまった。宿に戻って落ち込んだままぼんやりしていると、再び携帯電話が鳴った。姉と一緒に医師の話を聞いていた姪からだった。

「あそこまで悪いとは思わへんかった。そやけど、今日明日死ぬということと違うからな。しっかりしいや。」と、20歳ながら一番しっかりしている家族の言葉を受けて、中年おやじは少し元気づけられたのだった。そして、これから逐次携帯電話で報告するからいつでも電源を入れておくように忠告されてしまった。そう、私の携帯電話は掛ける方のみで掛かってくる呼出音が厭なことからいつも電源を切っていたのである。

告知からすべての「時」の歩みが滞ってしまったようだ。そして私の体にも異変が起こってしまった。全く食べ物の味が無くなってしまったのだ。もちろん食欲も一切失せてしまったのは言うまでもない。さらに顔から笑いの表情も無くなってしまった。夜、蒲団に入っても脳裏には母親の事ばかりが浮かび、子供の頃からの回想シーンが次々と頭のスクリーンに上映されていった。結局オールナイト上映になってしまい、翌日は目の下に隈をつくって仕事場に出ていったのである。

その週末、京都への新幹線の旅は実に長く感じた。

<その3.葛藤>

3月13日土曜日午後2時頃、京都駅に降り立った私はとても真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。当てもなく京都駅周辺を歩き回り、地下鉄に乗って東山三条まで来ると、そこからは交通機関を使う気もなくぶらぶらと街の裏路地を抜けて吉田山の家まで歩いてしまった。歩きながらも頭の中は母親の事ばかりであった。狭い京都の街である。かなりの長時間歩いたつもりだったが、3時には家の門の前に立っていた。そこから眺める家の様子がどことなく寂しく哀しげだった。

家に入ると姉たちがなにやら口喧嘩をしながら料理を作っていた。入院している母親に持っていく料理なのだが、喧嘩の内容は料理ではなく役割分担の事らしかった。遠くに離れて住んでいる私と違って、いつも一緒の彼女たちである。少々の感情のずれが長く尾を曳いて延々と言い争っている。お互いに決して譲歩せず自己主張をし続けるのだから、論議は平行線をたどり声と口調は次第に激しさを増大してゆく。特に下の姉と姪との折り合いは昔から悪く20歳と50歳の女が対等にやり合う姿は横で見ていても気が滅入ってしまう。その状況は日常茶飯事で、母親の病気の要因になって然るべきものであろうことは傍目にも明らかなのだが、本人達はどうにも気が付かないようで、日々激昂しているのである。

夕方近く姉と病院に行くべく家を出た。大津の日赤病院に入院しているのだが、そこに行くまで峠を2つ越さなければならない。昔ならば大変な行程だが、今日の交通機関の発達で、浜大津まで地下鉄東西線が通っている。「蹴上」までタクシーを利用し、そこから地下鉄に乗るのだが、次の「御陵」では地上に出てしまう。山科を抜けて逢坂峠の急カーブをうねうねと電車は身を捩って走って行く。上栄町という駅で降りるのだが、夕刻ともなると駅員が居ず、運転手と車掌が車外に出て切符を集めていた。病院に続く道すがら、葉を落とした枝が伸びた巨大なケヤキが立っていた。銘板を見ると「犬塚の欅」とあり、5百年ほどの樹齢の木だった。母の病気を治して下さいと願を懸け、鯛の煮付けとイチゴを持って病院に入っていった。

姉たちの話を聞く限りでは見るも哀れな姿しか想像出来なかったのだが、病室のベッドにちょこんと腰を下ろしている姿は顎の下に巨大な瘤をつくっている以外、別段正月に会ったときと変わりない母の姿であった。痛みも無くただ邪魔なモノがあるだけと言うだけあって、至極元気なのだ。大きさは子供の頭ぐらいあり、冗談半分で瘤に顔を描きたいと言うと本人喜んで「描いて描いて」と言う始末。だが、その明るい様子を見た瞬間、それまで私の心の底に重く溜まっていた不安が瓦解してしまった。

「(これなら治る。いや、治してみせる。決して死なせはしない。)」 

その思いが募ったとき、腹の虫が鳴き出した。現金なもので、安心したために食欲が沸いてきた。この数日間というもの殆ど食べ物は喉を通らず、味も感じなかった為に、95キロあった体重が一気に90キロまで落ちたのだ。良いダイエットになったと解釈すべきなのか。

病室に入る前、担当の医師と話す機会があった。若いがなかなか親身になってくれる医師で、母親も信頼しているらしい。彼の話では、細胞検査をしないとはっきりした結論は出せないが、リンパ腫は実に多様で良性とも悪性とも今は判断出来ない。急激な腫瘍の発達から見て、悪性の可能性がある。もし、悪性でも今の段階ならば完治の可能性は50%である。との話だった。その50%にすべての可能性を掛けるしかない。ただ、告知をすべきか否か、迷っているとのことだった。母親は、自分は絶対にガンになることは無いと信じ切っていると同時に、あれだけの巨大な瘤を抱えながら「リンパ腫はガンと違うもん。」と断言して憚らないのだ。病気に関する知識が乏しい分、その病気の重大さを認識し得ないだけ気分を明るく保てるのだ。従って家族からは一切ガン告知をしないでおこうと決め、医師からもはっきり告知はせず、遠回しに雰囲気で何となく理解できるような状況に持っていってくれるよう依頼したのだった。

その夜の家族会議は壮絶な口論となった。皆の思いは母の命を救いたいが一心なのだが、自分の生活を犠牲にしなければならない状況を打開すべく自己の保身のために出てくる言葉は全く関係の無い過去の躾や癖等を槍玉に非難しあうものだった。女の記憶の抽斗は話題に事欠かない反面、一つの議題に集中出来ないようだ。あらゆる抽斗を引っぱり出して散らかし放題に散らかした挙げ句、本題が底の方に埋もれてしまって収拾がつかなくなってしまうのだ。しかし、その修羅場の中で唯一自分の存在を確立している者がいた。猫である。涙を流し嗚咽しながら口角泡を飛ばして激論が飛び交う中で、一際高い冷蔵庫の上に登って悠然と毛繕いをした後、磁石で付いているクリップでタマを取り始めたのだ。そして、それがポトンと下に落ちた時だった。それまで激しく言い争っていたのが一斉に猫の方に目がいくと、声が当に猫なで声になり、

「アスカちゃん、何してんのぉ。カワイーッ。」
「そんなとこ登ってエエご身分やなぁ。」

涙で濡れた笑顔が揃う。女の心理が理解出来ない瞬間だった。ほんの一瞬猫のお陰で和んだ雰囲気だったが、次の瞬間再び激昂した口論が始まったのだ。男の私の入り込める余地など全く無い。しかしながら、最終的な結論を出すときは長男だからと私に決断を迫るのだ。一体何の話題だったのかを理解する間もなく頷く哀しい男の姿があった。

<その4.週末の旅>

毎週末の上洛生活が始まった。三連休で道が混むと考えてあかべこGSで帰ったのが失敗だった。早朝から横浜は冷たい雨が落ちていた。西の方に行けば雨も上がるだろうと楽観していたのだが、考えが甘かった。東名高速を岡崎まで走ったのだが、それまで落ちていた雨が雪に変わってしまったのだ。ヘルメットのバイザーが打ち付ける雪で白く覆われ、高速で走るのもままならないので結局降りてしまった。それほど寒くは無いだろうと高をくくっていたため完全防寒という出で立ちからは程遠い薄着だった。冷たい雪が容赦なく降り注ぎ、融けて染み込んでくる。歯がガチガチ鳴って震えが止まらない。また、大風邪を引くのでは無いかと不安になってしまった。名古屋に入る頃には雪も止んできたので、再び高速道路に乗った。路面は濡れているものの、降り落ちる雨も雪も無い。その代わり吹き付ける風は冷たさを増しているようだ。途中のサービスエリアで家に電話をして風呂を沸かしておくように伝えた。冷え切った時の一番の薬は温かい風呂に限る。夕方、京都に辿り着いたものの、その日病院に行く事はさすがに止めた。こっちが入院しそうだ。

前日、あまりにも腫れが大きく今にもはち切れそうになったため、急遽抗ガン剤を投与したとのことだった。医師としては効果を期待していなかったらしい。ところが、投与の翌日には半分ほどの大きさになり、3日目には三分の一にまで縮んでしまったのだ。家族としては効果覿面とばかりに大喜びしたのだが、休日明けの医師の診断では当然の経過だということだった。まだまだ油断できないというのは、リンパに出来た腫瘍であるため全身にガン細胞が散らばった可能性があるというのだ。このままではどこでまた再発するか分からないということで、一旦喜んだ家族の面々は再び意気消沈してしまった。本人は最初から「ガン」とは思っていないのでケロリとしてトボケたことばかり言って笑っているのである。

抗ガン剤は相当きつい薬であるため、3週間毎に8回投与、即ち約半年が治療のスタンダードということらしい。いずれ髪の毛が抜けてしまうと聞かされても、まだ母は自分がガンに罹っていると思っていないようで、惚けているのか本当のバカなのかよく分からない人間である。しかし、ガンだと宣告されて落ち込んでしまうより、大した病気じゃないと信じ込んで陽気な小娘のようにケラケラ笑い転げている母を見ている方が遙かに希望が持てるのではないだろうか。

三連休の最終日に京都を発つ頃には、腫れ上がって伸びていた皮膚がしわしわになって垂れている程になっていた。その日の京都は小雪舞う寒い天候で、大津から名神高速に乗って走るうちに猛烈な吹雪に見舞われることとなった。横殴りの雪の礫と強風で車体は右に傾ぎ体は反対の側に倒して直進を強いられている。本来コーナリングで行うリーンアウトの体勢で直進しているのだ。前走の車に付いて走るのだが、その車も強い横風に煽られてフラフラ蛇行している。走行車線を走ろうにもついつい右の車線に吹き寄せられてしまう。そんな時だった。後ろからクルクル回る赤いライトを付けた車が迫ってきた。まさか自分のことだと思わなかったので、道を譲るつもりで左車線に移ると、

「バイクの運転手さん、後に付いてきて下さい。」

と、止められてしまった。強い風の中寒さに震える体には温かいパトカーの中はありがたかった。

「高速道路ではバイクは80キロ制限なんですよ。113キロ出てましたから33キロオーバーで3点減点の3万円の罰金になりますね。」

などとおっしゃる。バイクといっても1100ccの大型でドイツのアウトバーンを200キロ巡航できる車に80キロで走れなんて徐行しろというようなものだと反論していたら、外に出てバイクを見てきたもう一人の警官が戻ってくるなり、「でかいバイクですねえ。凄いバイクですねえ。」と感心しきり。どうやら後ろから見たところ、50,40,40リッターの巨大なトップケースとサイドケースを着けて巨大な男が乗っている姿が、250cc程の小さなバイクに見えたらしい。それが他の車と同じように走っているものだから、二輪の制限速度を楯に止めたらしい。さすがに目の当たりの240キロまであるメーターと巨大な車体に圧倒されて、ひそひそ話をしたお巡りさん達は、「じゃあ、スピードに関しては今回は不問にして警告ということにしますから、せめて通行帯違反だけでも切符を切らせて下さい。」と曰うた。3点が1点になって3万円が6千円になっただけでも儲けものかと即刻サインした。それから岐阜県警の暖かい車内で暫し談笑して再び寒風の中を走り始めたが、大人しく80キロで走るようなライダーであるはずがない。風も弱まり雪も無くなった東名高速をプラス100で走り抜けたのは言うまでもない。

<その5.回復傾向>

一週間後の週末、今度は新幹線で上洛した。京都駅に降り立ち、改めて新しくなった駅ビルを見て回ったのだが、巨大な箱モノという印象以外風情というものが感じられない。駅はその街の顔なのだからもっと京都らしい風情を重んじた設計にすべきではなかったのか。今更ながら残念だ。今回は春の花の時期でもあり、鴨川と疎水縁を散策しながら吉田山の家へ向かった。ソメイヨシノは七分咲きなのだが、天候不順のためかいつもはもう少し遅く咲くしだれ桜がほぼ満開で美しい姿を見せていた。ソメイヨシノよりピンクが強く出ている花びらが風に煽られて数枚はらはら落ちてくる。疎水の岸辺にゆらゆら靡く枝垂れ柳の新芽が蒼い水面に映って美しい。そのゆったりとした水の流れに落ちた桜の花びらが映りゆく水面の情景に鮮やかな対比を見せていた。街中の観光客の数はさほど多くなかった。

家に入ると以前とは異なる雰囲気が漂っていた。姪と敵対していた姉がインフルエンザで2週間ほど入院していたのだが、数日前に退院して帰ってきていたのだ。その姉と姪との会話がなんともピンと張られたロープの上で交わされているかのように危ういのだ。表面的には親しげに話しているのだが、いつ何時その均衡が崩れるのか分からないお互いの感情のぴりぴりした緊張がそこはかとなく感じられていとをかし、なのである。

その日の夕方になり、いつもの手料理を携えて病院に向かった。姉の話によるとゲソリと痩せたと聞いていたので心配していたのだが、実際母の顔を見た時いつもと変わらぬ状態だった。顎の下にあった巨大な瘤が嘘のように無くなっていたのである。そう、1週間で完全に。従って母の様子は至って元気そのもの、病人であることがおかしいほどなのだ。食欲旺盛、意気盛んでしゃべりまくり小うるさいほどだ。姉の目から痩せたと見えたのは、ずーっと瘤のある顔を見ていたので、瘤の無くなった顔が痩せて見えたのであろう。見た目では何も無くても深く潜行している可能性があるので、治療は続けなくてはならない。2週後には再び抗ガン剤を投与する。その時には髪の毛が抜け落ちるのだ。周囲にはスキンヘッドの患者が大勢いる。それもその筈でそこはガン病棟なのだ。そのガン病棟にいる自分はガンではないと信じ込んでいる母親。いったいこれからどうなる事やら、少なくとも秋までは振り回されそうである。

 

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