あかべこ日記「続 心の旅」

あかべこ日記「続・心の旅」

平成12年神無月

ベベパパこと森みゃお記す

<親亀転けたら・・>

 それは物憂い朝だった。目覚めて外を見ると鈍色の黎明がレースのカーテン越しに窺える。今にも泣きだしそうな空が辺りを覆っていた。強ばった体を布団から引き剥がして起きあがろうとすると一週間前に負った膝の怪我が中の方から鈍い痛みをじんじんと伝えてくる。その怪我は起こるべくして起こった転倒によって負ったものだった。

 秋の雨上がりの爽やかな日に藤野の奥にある軍刀利神社のカツラの黄葉を愛でようとバイクで走って行った。朝露に濡れ軍刀利神社のかつら(ぐんだりじんじゃ)た草を踏みつつ甘いカツラの匂いに包まれて仄かに色付いた黄葉を楽しんでいた。同じ時に訪れていたスイス人の親子連れにカツラの甘い匂いの話や日本の美しい紅葉の話をして喜んでもらえたようだ。またどこかで会いましょうと別れて徐にバイクを狭い坂道に押し出した時、崖っぷちの方が濡れて緑色に光っているのに気が付いた。苔だろうな、苔は滑るだろうな、苔で転けたら洒落にならないだろうなと反対側の端を行こうとしたその時だった。斜めに通っているゴムの配水管に前輪が乗った瞬間、ちゅるんと滑り、ハンドルが思わぬ方向即ち崖縁の方に向いてしまったので慌てて逆に押しやると今度は苔に乗ってしまい、再びちゅるん、すると車体が右側に傾きあわやこっちの体が崖の外に放り出されそうになった。仕方なくまたハンドルを逆に切って車体を立て直そうとすると今度は後輪が苔に乗ってちゅるりん、狭い坂道そんなに滑って何処へ行く? と、前輪が崖縁からガクンとはみ出してしまった。一緒に崖下へ転落したら命はない。咄嗟にバイクを倒れるに任せて坂下の方に跳んだのだが、何分巨大なバイクに巨大な人間だから動きが傍目には緩やかに進行したように見えただろう。だが重力は正直である。軽やかに着地した気になっていたが膝に強い衝撃が走った。バイクを見遣ると哀れにも仰向けに近くひっくり返り虚しく後輪が回っていた。エンジンを切って引き起こそうとするがびくともしない。先ほど別れたスイス人の旦那が駆けつけてくれたので力を合わせて一旦サイドスタンドを出せるまで起こし、呼吸を整えて一気に前輪を崖の縁から引っぱり上げた。車体には殆ど損傷はなくトップケースの横に擦り傷が付いた程度だった。エンジンも直ぐに息を吹き返し、気遣うスイス人に再び別れを告げて坂道を下っていった。そして彼らの姿が見えない所まで来た時、路肩にバイクを停めて裾を捲って右膝を見ると、ものの見事に古傷の真上を抉るように擦り剥いて血が滲んでいたのだった。バイクの愛称がよくなかったのかもしれない。「亀仙人」だけあって親亀が苔で転けたら一緒に子亀も転けてしまった訳である。

 そんな右膝の古傷と新たな傷の合同炎症もあり、併せて庇う負担で左膝も疼き出した物憂い朝、あかべこの背中にアルミ岡持三点セットを装着して走り出したのだった。東名高速道路に乗っても一向に太陽は顔を出さなかった。いつもなら晴れやかな姿を見せてくれる富士山も今日ばかりは厚い雲に覆われ裾野さえもその稜線を見ることは出来なかった。一気に浜松まで行き、甘ったるいウナギの昼食を摂って再び高速の風となったのだが、結局京都に着くまでの行程すべてに鈍色の空が覆い鉛色の雲が重たく垂れ込めていたのだった。

<京の苔衣>※

 それは9月の初旬のことだった。京都の姪から携帯電話にかかってきた。一瞬入院中の母親に異変があったのかと思って鼓動が高まった。

「あのな、オンバイが死なはってん。」

「ええっ?!なに、それ!?なんで、オンバイがやねん?」

オンバイとは私が8歳の時からずっと我が家に住みつき、40年以上苦楽を共にしてきた人物のニックネームである。京都大学の学生時代に下宿していたのが始まりで卒業後司法試験を受けるまでという約束がずるずると67歳まで殆どの人生を我が家の犠牲にしてしまった人なのである。時には父親代わりであり、家庭教師であったのだが、姪が産まれてからは、父親のいない彼女にとって父親以上の存在であったように思われる。姪が幼い頃あやす時に「おろろんばい、おろろんばい」と言っていたのがそのまま幼児語で「オンバイ」と呼ぶようになってしまった。つまりは私と姪の二代に渡る父親代わりだったのだ。

「いつのことやねん?なんでやねん?」

「あんな、何回電話しても通じひんし、お習字の代稽古も出てきはらへんから、おかしいなあと思うて部屋を見に行ってん。ほならな、鍵懸かってるし中でテレビの音聞こえるから、大家さんに鍵開けてもろたら、座敷で乾涸らびたみたいになって死んだはったんや。」

「何、それ?変死やったんか?」

「先週空手の稽古の後ちょっと具合が悪そうやったんやけど、おそらく部屋で倒れて脱水症状起こしてそのままやったみたい。」

晩年は京大空手道部の総監督をやっていて八段の段位を持っていた。この十年ほどは我が家から出て近くのアパートで暮らしていたのだが、生涯独身を通したのも我が家の度重なるトラブルが影響していたのだろう。何しろ身近な女性の姉たちは揃いも揃って出戻りだし、母親は未亡人、おまけに付いてきたのが姪で、産まれてすぐに離婚してしまったのだからトラブル大抱えの女系家族なのである。私も未だに独身なのはそのような家系に産まれた育った以上同じ運命が待ち受けているのではという諦めがあるのかもしれない。

「で、帰ってくんの?今日?」

「分かった、直ぐ帰るわ。」

結局、会社を早退して家に飛んで帰り喪服をトップケースに放り込んで走り出したのが午後5時。東名神を豪雨の中かっ飛ばして9時には雨の降りしきる我が家の鍵の掛かった門前に立っていた。姪の携帯電話にかけると、

「なんや、誰もおらへんの?今、何処にいんねん?」

「みんなお寺にいるで。今晩お通夜やさかいな。」

「ほな、そっちに行くわ。何処の寺や?」

「西洞院上がったとこのちょっと東入ったとこや。」

「わかった。直ぐ行く。」

京都の人間でないと理解出来ない地名と方角を直ぐに頭に描いて、ものの五分で着いてしまった。京都の街は狭い。霧雨に濡れる京都の小さな寺には慌ただしく駆けつけた親族や空手部の学生達が沈んだ表情で佇んでいた。

 翌日、告別式の間こそ雨は止んでいたが、出棺が済んだ途端涙雨となって参列者の肩口を濡らした。横を見遣ると我が家の女たちが袖口を濡らしていた。オンバイにどれほどの恩恵を授かっただろうか。だが、生前は結構邪険にしていたように見える。女性の心は分からないことが多い。ともかく「女は感情を引きずらない動物」である。さっきまで喧嘩をしていたのに瞬間的に気分を変えて大笑いしていることがある。泣き喚いていたかと思うと、けらけら笑いながらお菓子をパクついていたりする。うじうじといつまでも感傷に浸るのを女々しいというが、どちらかというと男の方が感情をいつまでも引きずって感傷に浸っているような気がする。だから「雄々しい」と「女々しい」の意味を交換したほうがいいように思える。

 翌日の日曜日、雨上がりの湿った京都の小径をさっさと抜け出した。いつまでも「雄々しい」女どもの付き合いは御免である。名神高速を養老までは何とか乾いた路面を走ってこれた。ところが愛知県に入った途端激しい雨が降り出した。慌てて路肩に停めて合羽を着込み走り出したものの、その雨足はすさまじいものだった。路面は川の如く水が溢れ、流れ、片や橋から見下ろす川面も水が溢れ、流れ出していた。東海大洪水の真っ只中にいたのである。「雨大男」の名に相応しい遭遇であった。思い起こせば何年か前の「那須の洪水」の時や「那珂川氾濫」の時も、古くは「長崎豪雨」の時も真っ只中をバイクで、車で走っていた。そして決まって私が通った後はその道が何らかの災害で通行止めになっていた。

将に天災を招く雨大男といったところだろう。

(※新後撰和歌集「夜な夜なの涙しなくは苔衣秋おく露のほどは見てまし」より「苔衣」は喪服、僧服の意) 

<京の雨衣>

 秋の色付く京都に期待してまだ明るいうちに着いたのだが、如何せんどんよりと曇った光のもとでは無彩色になってしまう。見回す山の肌には霞がかかり、さながら白粉を塗った舞子の如くに見えた。時代祭の見物で混雑する道路を避け、勝手知ったる裏道脇道裏小路を巨大なバイクでひょいひょい走り抜けるのだが、京都の小径は本当に狭く、人がすれ違うときは塀なり軒下なりにべったりと張り付くようにしなければバイクでさえも通れないのである。一応道として縁石を両側に設えてあるのだが、その間の道路面としての舗装の巾が10cmほどしかない所が至る所で見られる。それが京都らしいと言えば京都らしいのだが、それも市道だと言われると首を傾げたくなる。

10cmではないが50cmほどの舗装面のある路地奥に巨大なあかべこアルミ岡持三点セットを停めて我が家に上がり込んだ。そこに週末だけ帰宅している母親が迎えに出てきた。月曜日から金曜日までは病院に「出勤」入院し、土曜日には「帰宅」退院して書道と華道のお稽古をつけて日曜日の夜病院に帰るのである。見たところ至極元気で別段入院する必要はないように思えるのだが、病気の原因になっているだろう要因が家の中にある以上、普段は病院に避難している方が安心といえる。それほど下の姉と姪の反りが合わないのだ。ことごとく常に始終いつでも顔を合わせる度に啀み合い罵り合い貶し合っているのだから傍にいるだけで気が滅入ってしまう。それに母親が間に割って入るのかと思うとそうではなかった。火に油を注ぐが如くになってしまっている。つまりは女の三つ巴の戦いが起こっていたのだ。男の私の目にはそれぞれの個の女が相手を別の人格として批判しているのだが、どう見ても三人の女の人格は同じといっていいほど似ているのである。母親は姉を、姉は姪を、姪は姉を批判するが、三世代の同一人格が自分自身を批判しているということに気が付いていないということに私は気が付いた。しかしそれを口に出して言う勇気は無い。下手に言うと三人の「女々しい」同一人格が一人の「雄々しい」別人格を徹底的にやり込める図式が目に見えて顕かだからだ。それだけは確信がある。我が家では肉体的には巨大な存在であっても、人格的には一番小さい存在なのかもしれない。いつまでたっても母親にとっては末っ子であり、姉たちにとっては弟なのだから。

 日曜日の夜8時にタクシーで病院に「出勤」するのに付き合ったのだが、そこでも「女々しい」戦いが繰り広げられた。後ろの席に並んだ三人官女が母親、娘、孫という図式の中で孫の稽古事と大学の学園祭に関する話題で大喧嘩を始めたのだ。普通に話せば穏やかに進むこともなぜか声高にどうして激しくなるのか理解に苦しむ。前の席で運転手にぺこぺこ謝る自分が情けなくなってしまった。

「そんなん、タクシーの中でするような話とちがうやろ!」

と、勇気を出して言ったら、それまで激昂していたのが、

「はっはっは、それもそやなあ。」

あっけらかんとした答えが返ってきた。雄々しい女々しさを持つ女たちである。

本当に女は感情を引きずらない動物だと実感した瞬間だった。

病院からの帰り道、夜空からポツポツと雨粒が落ちてきた。これから一雨毎に京都の秋は深まり11月の半ば頃には山の紅葉はもとより街の至る所にある寺社仏閣の庭園が見事な彩りを見せてくれる。去年の秋はちょうど母親が退院して晴れやかな気分で紅葉を眺められたのだが、今年の京の紅葉は雨衣を重ねて纏っているように見えた。

<雨の修験者>

 翌日は朝から雨音が庭に響いていた。「母屋」から「離れ」への渡り廊下の銅葺き屋根に空から落ちてくる雨が当たる音に混じって時折サルスベリと椿の梢から降り落ちる滴がぱらぱらと変調のリズムを刻んでいた。「離れ」から「茶室」に上る斜面に枯山水が設えてある。そこの手水に滴る音が独自のリズムでぴちゃんぴちゃんと聞こえてくる。母の書斎で稽古場でもある「離れ」の布団の中、庭で繰り広げられる雨のシンフォニーに耳を傾けているといつしか少年時代の自分に戻っていった。

 部屋に漂う墨の匂い、書道の稽古日には大勢のお弟子さんがひたすら墨をすり筆を走らす。書家の息子にありながらミミズがのたくったような字を書くからと手ほどきを受けたものの、齢50近くなってもいまだに私の字はミミズがブレークダンスを踊っている。そういえばこの「離れ」でオンバイの英語の授業を受けた記憶が蘇った。中学3年の時、英語が全く苦手だった。テストでも20点とか30点しかとれなかった。そんなときオンバイに英語を教わったのがこの部屋でだったのだ。その授業の効果は覿面で直後のテストから100点の連続となり、高校に入ってからも得意科目となってしまったのである。ただ、数学と物理だけはオンバイも苦手だったらしく、生徒である私自身も倣って学生時代のどん底科目となってしまった。

 部屋の棚には花器がずらりと並んでいる。華道の稽古日には大勢のお社中さんが鋏を握り、花を活ける。子供の頃から大勢のお弟子さんやお社中さん達の稽古風景を見てきているからか、門前の小僧の如く書や花に興味だけは持っていたようだ。だが、そこまでで留まり、興味以上のものまでは身についてはいない。

 母屋に下りると慌ただしく朝食を終え、姉たちは出勤、姪も大学の授業へと出かける準備をする。留守番は、巨大なピレネー犬とシャム猫、居候の雄猫2匹に庭に棲みついている狸たちとイタチが引き受けていた。どうも京都の家はヒトのメス4頭を筆頭に雑多な動物園と化しているようだ。

 雨の降りしきる中、名神から北陸道へと走り続けた。これまで6回同じ道を走っているが、いつも雨中走行をしている。名神では雪の中をバイクで走行したほどだ。前を行く車の上げる水飛沫で眼前が真っ白になる。ヘルメットのシールドの内側にまで飛沫が入り込み眼鏡にも水滴がついて暗中模索ならぬ雨中模索状態になってしまうのだ。従って余計なことを考えずに前方の朧気な視界に集中する事を余儀なくされる。一歩間違えれば確実に死が待ち受ける雨中の高速走行だけに、走っている間の精神状態は修行僧のそれに等しくなってくる。ひたすら心を空にし、内包されたる自己の意識を解放することで周囲の環境情報を敏感に察知せんと冷たい雨と風に耐え続ける姿はまさに修験者そのものであろう。冷たさと緊張で手は強ばり、肩にも力が入って凝り固まってしまった。

永平寺門の石碑「杓底一残水」 福井で高速を降り永平寺に頭を向けた。雨に煙る山道を駆け登りやがて山門に辿り着く。脇の石に文字が刻みつけてある。

「勺底一残之水」

勺の底に残った一滴の水を生かすも無駄にするもすべて己の意志に依る。人の運命は神や仏が決めるのではなく自分自身が決めるものだと勝手に解釈しているのだが、その時は勺にも一杯の雨水が溜まっていた。勝山から大野を抜け和泉村まで雨中修行を積んだが、九頭竜湖まで来て二進も三進も行かなくなってしまった。それほど酷い降りではなかったのだが、視界が白く失われたのと、手先の感覚が冷たさに負けてなくなってきたのである。道の駅の観光案内所に宿を紹介してもらったのだが、そこは一年前にべなく断られたプチホテルだった。

「さっき観光案内所で紹介された者です。」

「はい、どうぞどうぞ、お待ちしてました。」

昨年とは全く違った扱いだった。尤も前回は雨の中から巨大なバイクで巨大なオヤジが濡れそぼって飛び込んできたものだから洒落たプチホテルのマスターとしては警戒したのかも知れない。やはり宿は予約なり紹介してもらうのが良策のようだ。その夜、雨の修験者は洒落たベッドで心地よい眠りに就いたのだった。

<石徹白の大杉>

 翌朝は澄み切った青空に小鳥たちが楽しげに囀っていた。半ば紅葉した山々は青い空に稜線をくっきりと浮き立たせている。雨に洗われた清澄な空気は一切の曇り無く、九頭竜の湖面にくっきりと木々の彩りが映っていた。白鳥から少し北上して石徹白の村落に向かった。白山中居神社に巨大な杉があるがもっと石徹白川を遡ったところに樹齢千八百年の大杉がある。五年前に訪れたときは河川工事で辺りを掘り返していたが、今は穏やかな川面に紅葉の落ち葉が漂っている。前夜の雨の名残の水たまりに構わず乗り入れて走ったお陰でせっかく乾いたブーツが泥まみれになってしまった。山頂にある大杉の所まで430段余りの石段が続いている。5年前も結構きつい階段だと思ったが、今回は更にそのきつさが増していた。3段上っては息を切らし、5段上っては膝を屈伸させて痛みに耐える。今度は石段の修験者になってしまった。足腰の衰えを痛切に感じてしまった次第である。尤も膝の怪我があるからという言い逃れも許されるかもしれない。

「石徹白の大杉」なぜか紅葉 汗だくになって登り切った山頂に「石徹白の大杉」は鎮座していた。上の方はかなり昔に折れてしまって聳え立つ姿は見ることが出来ないが、神々しく佇む太い幹からは木霊の宿りが伺える。見上げると突き出た梢の袂から紅葉や黄葉が鮮やかに戦いでいた。杉は紅葉しない筈とよく見ると、飛んできた種が着床したのであろうモミジやハゼノキが宿っていた。周囲を巡ってみると土が軟らかくふかふかと靴がめり込んでいく。いろいろな灌木の落ち葉が積もって腐植土になってはいるのだが、爪先で掘り返してみると、かなりの地中生活者達が蠢いていた。更にあちこちに盛り上がりが出来ていて多くのモグラの存在が見て取れる。栄養豊かで風通しの良い土のお陰でこの大杉もまだまだ長生きするであろうと思われる。ただ、周囲の木立を切り開いてしまった人の業には苦言を呈さざるを得ない。恐らく人の手が入っていなければ、遙かに聳える大杉の姿が残っていた筈である。

 しばし石徹白の大杉と語り合った後石段を下り始めたのだが、上りとは異なった筋肉を使用するためか、盛大な痛みに耐える修行をする羽目になってしまった。麓に降り立った時にはしばらくしゃがみ込んでしまい立ち上がることさえままならなかった。

 石徹白から来た道を戻るつもりでのんびりバイクを走らせていたのだが、何か見慣れない風景だと思ったのも当然で曲がる所を素通りしてしまい結局朝出た九頭竜に舞い戻ってしまった。仕方なく再びプチホテルで昼食を摂ることにした。

「ただいまあ、また戻ってきちゃった。」

「おやまあ、一周してきたんですねえ。ご苦労様。もう一泊しますか?」

余計なお世話である。前夜の味噌カツ丼に続いて今度はソースカツ丼を食してしまった。昨年までは川魚料理を売り物にしていたのだが、採算がとれないので止めてしまったとのこと。イワナやヤマメの焼き魚定食が恋しく思えた。

 朝走った道を再び昼に走る。何度も同じ道を走ったあげく結局その振り出しに戻ってしまった。本来同じ事の繰り返しは単調になりがちだが、道を行く者にとって路傍の風景は常に変化するものである。道程は日々刻一刻変化し続ける。それらを見つめ続けることこそ道の修験者、即ち自然に親しみ自然を楽しむ求道者だと思う「道楽者」だった。

ベベパパとは? 答えは六ページ前に


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