あかべこ日記北陸編「心の旅ふたたび」

      あかべこ日記北陸編「心の旅路ふたたび」

 平成13年卯月

 ベベパパこと森みゃお記す

<母心>

 ピカピカに磨き上げられたタンクローリー車の後ろを走ることが殊の外気に入ってしまった。特に楕円ではなく真円のタンクが面白い。まるで魚眼レンズで覗き込むような奇妙な世界が目の前で繰り広げられる。自分の姿は一定の位置にあるものの、背景が次々と極端な遠近法で周囲から現れて自分の後方に小さくなって消えて行く。まるで自分がドーム型スクリーンに映し出された映画の主人公になったように見える。丸いスクリーンの中で右に左に動く、ライトを点滅させてみる、バタンクローリーに写るイクのステップに立ち上がって両手を広げる、巨大なバイクに跨った巨大な少年の遊ぶ姿が映し出されていた。

 昼間、あちこち立ち寄りながら東海道を来たが、琵琶湖南端の膳所あたりで雨になってしまった。巨大サイズのレインウエアを着込み、ゴム手袋をはめて走り出したものの、ヘルメットのシールドを打つ雨が渋滞する車のテールライトを滲ませる。何とかすり抜けて近江大橋を渡り、大津の病院に入ったのは面会時間を過ぎた8時頃だった。母親には病院に行く旨伝えていなかったので、いきなり病室に入り込んできた大男にびっくりしたようだった。だが、もっとびっくりしたのは母親の変貌ぶりだった。正月に帰った時はまだ声にも張りがあって顔も少し丸みがあったのに、今見る母親の姿は痩せ衰えた老婆そのものだったのだ。抗ガン剤とコバルト照射でものが食べられなくなり、点滴だけでこの1ヶ月過ごしているという。それでも何とか口にしたものを飲み込もうと蒲鉾を小さくちぎってくちゃくちゃやっている様子を見て悲しくなってしまった。

「おかあちゃんなあ、もう十分生きたから、こんな延命措置なんかとってもらわんでもええでってゆうてんのに、先生やみんながまだ死ぬのはもったいないていわはんねん。そやから、もうちょっと頑張ってみるわな。」

そんなことを言う母親に向かって、息子としては何も言う言葉を探し出せなかった。

「ああ、眠た、ずうっと走りっぱなしやったさかい疲れたわ。ちょっと向こうで寝てくるわ。」

と、廊下の端のベンチに座り頭を抱え込んでしまった。涙が次々と溢れて頬を伝い落ちる。ずっと京都で一緒に暮らす姉たちと違って、年に数回しか顔を会わさない私は、いつも気丈な若々しい母親の姿しか見ていなかった。ここ数年の入院生活の中で、会うときはやつれていても気持ちだけは陽気に振る舞っていた母親だけに、生きる望みを失いかけているような言葉には非常なショックを受けてしまった。

「はあ、ちょっと眠ったら楽になったわ。」

と、辛い嘘を口にしながら病室に入ると、看護婦が点滴を入れ替えていた。

「これが息子です。こんな大きなおっさんやけど、まだ独身ですねん。」

余計なことを言う母親である。その看護婦が出て行った後もお節介は続いた。点滴の管を邪魔くさげによけながら、

「あんな、今の看護婦さんはちょっとあんたには若すぎるかもしれへんけど、薬剤師さんにあんたの写真見せたら気があるみたいやで、今度会うてみいひんか。そやそや、白内障の手術してくれはった女医さんもすごい美人やけど、あの人もええで、どうや?」

矢継ぎ早に次々と一面識もない女性を上げ連ねる母親の姿に「やり手婆」を見たようだった。聞くところによると病院の中はおろか、時折行く美容院や見舞いに訪れる人たちまでを息子の嫁にどうかいなと物色しているらしい。50近い息子の嫁を見るまでは死ぬわけにはいかないと頑張っているのだから、このまま独身を通して嫁探しをさせておくのが最良の延命措置で、親孝行なのかもしれないと思わざるを得ない。いずれにせよ口だけは達者な病人である。

 翌日の朝、前夜のべとべとのライダー姿では病院に失礼かとスーツ姿で訪れた。

「なんや、どこの紳士かと思たやないか。えらいパリッとしてるさかい、お見合いする気になったんか?」

口の減らない婆さんである。この場に及んでまだ言っている。

「どっちがええ? 薬剤師さんか? 眼科の女医さんか? 電話して呼んだげよか?」

コスプレのテレクラまがいのセリフだ。しかも点滴の管だらけの老婆だけに鬼気迫るものがあった。

 夕暮れ迫る京都の街は春の観光客で混み合っていた。岡崎公園の桜が満開になっており、一風吹くたびに花吹雪が舞う。3年前の桜の頃、母親の入院から心の旅が始まった。3度目の桜も病院からの帰りに眺めている。旅路の果てが見えてきそうなのだが、今は見たくないという気持ちが強い。しかし、現実に母親の老いた姿を見ると自暴自棄になってしまいそうな自分がそこにあった。

 正月に離れの座敷で母親と一緒に寝ているとき、夜中に何度も耳を澄まし母親の寝息を確認していたことを思い出す。このままずっと起きないのではないだろうか、寝息が止まったらどうしよう、そんなことばかり考えてしまって朝までまんじりともしなかったのだ。結局、正月休みは睡眠不足で東京に戻ったが、今回は入院しているので安らかに離れ座敷で眠れる筈だった。だが、周りは母親のものばかりで目に入る度にいろいろなことが思い出されてしまい、何時しか窓の外には黎明が訪れていた。

<北へ>

 朝になっても家の姉たちは起きてくる様子がない。仕方なく荷物をバイクに積み込むが、犬小屋の中で巨大なピレネー犬だけが無言でしっぽを振って見送ってくれた。前日、裏山で遊んだ後、玄関先で親密なるじゃれ合いを演じた仲である。男同士通じ合うものがあったのかもしれない。

「我が家の女共はしょうがないね。見送りにも来ないんだからね。」

スダジイ一里塚

 早朝の街中にも関わらず大津方面は混んでいた。さっさとバイクの向きを変えて北に向かった。北白川から修学院、大原を抜けて若狭路、別称鯖街道を行く。早朝のため当然鯖寿司の店は開いていない。空腹を訴える胃がきゅるると鳴くものの、コンビニらしきものがないのだ。朽木村から今津を経てマキノの裏道を走り、西近江路を五位川沿いに敦賀に入った所で、路傍に一際目立つスダジイを見つけた。一里塚とあったが、大抵松の木が多い。尤も、最近は松食い虫による被害で全国的に松が減っているようだ。

以前訪れた広島県の「下素麺屋の一里塚の松」も然りで、見あたらないからと店先の人に、

「あのう、この辺に下素麺屋の一里塚の松ってのがあるはずなんですけど、どこですか?」

「ああ? あ、アンタの後ろだ。」

と、振り返ると立派な切り株が真新しい切り口を見せていた。

「マツクイにやられてねえ、おととい切ったばかりさ。」

香川県の志度町にあった「岡野松」に至っては、日本一立派な枝振りの松であったのに、ただの丸太になって積み上げてあった。そこも私の行く2日前のことだった。どうも私との相性が悪いのか、「松」は2日を「待つ」ことができないようだ。

 ようやくコンビニを見つけ、ぐうぐう鳴く胃袋におにぎりをプレゼントしてやった。敦賀から乗った北陸道を福井で下り、永平寺に向かう。思えば晴れた日に訪れるのは初めてだった。参道の両脇に立つ石柱に「杓底一残水」と「汲流千億人」の文字が彫り込んである。以前訪れたときは右の「杓底一残水」しか目に入っていなかったので、それだけで「杓の底に残る一滴の水を生かすも無駄にするもすべて己の意志次第」と勝手な解釈をしていたのだが、今回左側の「汲流千億人」に初めて気づき、「多くの人々を救う流れともなる」という風な解釈をもって、さほど外れてはいなかったようだと納得した。境内には巨大な杉が林立しており、手入れの行き届いた美しい樹形を保っていた。その杉の根元にある池の中の蓮の台に座す観音像や一葉観音像に、母親の快復を祈願してその場を辞した。停め置いたバイクまで戻ろうとすると、観光バスから大勢の善男善女がぞろぞろと群を成していた。見ていると石柱の文字に目を遣る人は一人もなかった。

 勝山から白峰村に抜ける峠近くに「太田の大栃」という日本一の大きさのトチノキがある。せっかくだから会いに行こうとしたのだが、峠付近はまだまだ残雪が深く、到達できるかどうか分からない。たまたま通りかかった郵便配達の人に問うた、

「あの太田の大栃まで林道は開いてますかねえ。」

「ああ? 行ったことないけど、ブルドーザーがどこまで雪をかいてるかねえ・・」

「ま、行けるとこまで行ってみますよ。」

雪の中のあかべこ

と、乗りかかったバイクだからと、雪の残る林道に踏み込んでいった。雪解け水でぬかるみ、あちこちに水たまりの出来ている砂利道をずんずん登って行った時だった。ふと前方の崖の上の方に大きな黒い動く影を見つけた。若いニホンカモシカが頭を動かしながらこちらを見ていた。次の瞬間、空中に踊り出すかのように飛ぶと、急峻を実に軽やかにぴょんぴょんと跳ね下りてくるではないか! 吃驚して急ブレーキをかけ、止まって様子を見ていると、4,5m先の道路端まで来て、向こうもこっちの様子を窺っていた。

「おーい、どったの? 赤いバイクが珍しいの?」

頭の角度を盛んに変えながら何か物言いたげに見ていた。

「最近口蹄疫が流行ってるらしいから気を付けてね。」

すると、カモシカは「ワッカリマシタア」とでも言うかのように大きく頷くと、サッと身を翻して急峻を駆け登っていった。しばし見送っていたが、考えるとカモシカは偶蹄目で牛の仲間ではないか。ということは、赤いバイクが走ってくるのを見て闘牛よろしく向かってきたとも考えられる。偶然出会った野生のカモシカの目は澄んで美しかった。

 更に先へ進むと、次第に雪で道幅が狭くなってきた。そして、少し開けた高台まで来たとき、そこから先は完全に雪に閉ざされてしまった。最早バイクで進むこと能わず。さりとて大栃までかなりの行程ゆえ、引き返すことにした。いずれ雪が溶けてから来ればいい。片道500キロくらいライダーにとってはどうってことない距離なのだから。その時はそう思ったのだが、そのために後で自分の体に悲劇が起ころうとは予想だにしなかった。

 登ってきた林道をよたよたと戻り、国道に出た時には昼になっていた。白峰村の川縁の食堂に入ってイワナの焼き魚定食を食べ、白山スーパー林道を行こうと道路の様子を店主に問うと、まだ雪で通行出来ないとのこと。仕方なく一気に金沢まで走り下っていった。金沢の街に入って強く印象づけられたことがある。それは、やたらと病院、医院の看板が多いことだ。電柱の一本毎に別の医院の名前が連なっている。街角には大きな医院の看板が積み重なるように立ててある。何だか患者より医師の数の方が多いのではと勘繰りたくなってしまう。今回の旅に出る3,4日前にインターネットを通じて偶然知り合った医師が金沢に医院を開いている。同姓で同い年ということで変に意気投合したばかりだった。その名前が頭の片隅にあって、きょろきょろ看板を物色しながら金沢東インターを目指していた時だった。

「なんじゃ!? 小森耳鼻咽喉科医院? ひょっとしたら・・?」

と、細い路地に入ってその医院にバイクを乗り付けた。黒革縅の物々しい衣装で、診察待ちの患者が奇異な目で見る中をずいずいと入り込んでいった。

「あのう、この名刺を見せてもらえば分かると思うんですが・・・」

と、濃いピンクの衣装を着けたナースに名刺を渡すと、訝しげにしたものの奥の診察室に持っていった。すると、額に円い鏡を付けた同級生がピンクのナースたちを引き連れて現れた。

「おうおう、びっくりしたあ、ほんの3,4日前にメール出したばっかりなのに、すっごいなあ・・」

と、突然出現した巨大な同級生に握手を求めてきた。ガッチリと力強い握手を交わすと、まるで旧知の仲の如く互いの表情が和やかになる。診察中でもあり、すぐに辞そうとすると、

「夜だったら一緒に飲めるのになあ・・」

と、名残惜しそうにしたのだが、生憎この巨大なオッサンは根っからの下戸なのだ。彼のホームページから察すると相当の酒好きらしい。多くの共通項を見出しながらも、酒に関してだけは正反対のようだ。

脇谷のトチ

 再会を約束して、ふたたびバイクを走らす。金沢東から砺波まで北陸道に乗り、一気に庄川町を抜けて利賀村方面の山道を駆け上がる。脇谷という所に樹齢600年以上の大栃があるのだが、以前から気になる変な木がすぐ傍の道路脇に立っている。若い杉なのだが地上2m辺りに巨大な猿が抱きついているような瘤ができている。その見てくれから「猿抱木」(さるだき)と名付けてしまったが、何の保護指定も受けていないので、何とかこのままにしておいて欲しいものだ。巨木も良いけれど、奇木もなかなか味があっていいものだと奇人は思う。

 利賀村の中に1000年以上生きてきたトチノキがあったのだが、残念ながら昨年枯死したということで切られてしまった。長く水神様として祀られてきたトチノキだが枯れても尚その根元からはこんこんと清水が湧き出している。3年前訪れたときには、地元の人たちが懸命に保存しようと腐り落ちた幹に保護治療を施していたが、力尽きてしまったようだ。5年前までは春の新緑が結構繁っていて、まだ大丈夫と思っていたが、急激に樹勢が衰えてしまったらしい。虚しく残る切り株に淋しさを感じながらそっと立ち去った。

脇谷の湧き水

 立山連峰を遙かに臨みながら、うだうだ続く国道を平湯に向けて走った。そんなにスピードは出さずにのんびりと走っていると、上宝村の橋のところでいきなり警官に止められた。ぎくっとしたものの決してスピードを出していた訳でもなく、後ろめたさはない。

「すみません。ちょっと番号控えさせて下さい。」

どうやら通行車両の調査らしい。何もないのだが、どうも白と黒の車と警察の制服には異常な反応を無意識にしてしまう。悲しい小市民の性なのかもしれない。その後は何事もなく平湯から安房トンネルを抜け、夕暮れの美ヶ原温泉の定宿にたどり着いた。

猿抱木

<魔女の一撃>

 翌朝はのんびりといつもの宿を出て、のんびりといつもの蕎麦屋に顔を出し、無駄話に華を咲かせて春うららの甲斐路をこれまたのんびりと横浜の家に帰り着いた。東海道から北陸道、中央道をぐるりと巡り、3日間でおよそ1500キロを走って帰ってきたのだが、どうってことない距離だと楽観していた。荷解きを済ませて徐に台所に立ち、食事の用意をしようと中腰になった時だった。何となく喉がむずがゆくなって、ゴホン!と咳をした瞬間、腰の辺りでじゅりっと音がして、

ズッキーン!!グギッ!・・・(イッタア〜イ!!)

と、声を出すこともできないまま、へなへなとその場にへたり込んでしまった。何が起こったのか一瞬分からなかったが、ちょっと体を動かそうものなら、ズキッ、立ち上がろうと脚を曲げると、ズキッ、悲鳴を上げようにも声を出そうとすると、ズキッ、悶絶状態でしばらく蹲っていた。それでも何とか布団の所まで行こうとすると、少し動く毎に腰から背中にかけてものすごい激痛が電撃的に突っ走る。ひっ、ひゃっ、うぇっ、おぇっ、うぐっ、・・と声にならない声を上げながら這いずるようにして布団まで辿り着いた。俯せになったまま、いつしか意識を失っていた。あまりの激痛に失神したらしい。気がつくと、煌々と電気のつく窓の外はうっすらと黎明が訪れていた。

俯せの姿勢が苦しくなって、仰向けになろうとするが、少しでも動くと激痛が走る。ゆっくりゆっくり、超スローモーションの如く激痛に耐えながら体を動かしてゆく。指先だけは何とか動くので、枕元にあった携帯電話をやっとの思いで手にし、会社に出られない旨をメールで送ろうとした。早朝の部屋の中、巨大な物体が身動きできずに指先でメールを打つ。ピピピ、ピピ、ピピ・・・と虚しい音が静かな部屋でいやに大きく響く。

「ギックリ腰で身動きできず。出社不可能」

送信して、すぐにまた意識を失い、数時間後着信音が鳴った。

「お大事に」

携帯電話の小さな窓に短い電文が微かに読みとれた。そして、また意識の暗闇に紛れ込む。次に気がついたのは再び夜だった。尿意を催したのだが、トイレに行くのがまた難儀なのだ。腰に負担を掛けない動きがこれほど難しいものだとは思わなかった。というより、あらゆる体の動きに腰が重要な役割を果たしているのだ。普段意識しない分、このような時には腰が際だって自己主張をし続ける。ものの数歩、数秒で行けるトイレまで一山越えるぐらいの時間がかかる。柱につかまってゆっくり立ち上がるも、歩くのもままならない。しかも一旦立ち上がったら次に屈むのが一苦労なのだ。やっとの思いでトイレに辿り着くも、屈めないし下を向けない。手探りでズボンを下ろすと便器に腰掛けるつもりで少し腰を落とした。その瞬間、ズッキーン!悶絶状態で一気に便器の上にデン!と腰を下ろすと、その衝撃で再びズキッ!一挙手一投足にズキッズキッズッキーンでは堪ったものではない。

結局、3日間布団の上で巨大なマグロが転がっていた。

何とか動けるようになって病院に行こうとするが、当然バイクでは無理と思い、車に乗り込もうとした。だがタダでさえ低い車体ゆえ、屈めない体が乗り込むのはちょっと難しい。だが、幸い幌の屋根を下ろせるカブリオレだったので、鯱張った体をそろりとシートに滑り込ませることができた。そして走り出したものの、マニュアルシフトではクラッチとブレーキを踏むたびに激痛が腰に走る。車と激痛の猛レースを繰り広げながら病院に駆け込んだ。受付で立っているだけでも激痛が襲い、気の毒に思った医師が順番を早めてくれた。治療台の上に俯せになって背中を見せると、後ろで医師達が驚嘆の声を上げた。

「うひゃあ、すっごい曲がってる、これじゃあ痛いはずだぁ。よく、ここまで来れましたねえ。」

感心するくらいなら早く治療してくれと心の中で叫んだものの、

「こりゃあ、すぐには骨が動かないから、しばらくコルセットで締めて様子を見ましょう。絶対安静にしていてくださいね。また、明日も来て下さい。」

安静にしろと言いながら、明日も来いとは酷な言い方ではないか。と再び心の中で叫んだが、仕方なく家まで車と激痛のレースを展開していった。

 一週間ほどで、何とか杖を頼りに歩けるようになり、2週目には杖もとれたが、腰の辺りの引きつるような軽い痛みが続く。御陰様で体重が5キロ減り、痛いダイエットになったようだ。ギックリ腰は「魔女の一撃」とも言うらしいが、聞くところによると出産の痛みに似ているらしい。だが、男の自分は出産の経験もなければ、予定もない。

1500キロに及ぶバイクの旅の後は、長い暗闇の中を痛みから逃避する心の旅路となってしまった。


ベベパパとたっちゃんパパの初めての出会いが今ここに明らかに
それにしてもベベパパさん
魔女の一撃
辛いですなー  お気の毒 (*_*)


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