あかべこ日記「心の旅・最終章」―旅路の果て―

あかべこ日記「心の旅・最終章」〜旅路の果て〜

平成13年長月  

ベベパパこと森みゃお記す

<風華の 香る窓辺に 茜雲>

 病床の母は殆ど意識をなくしていたようだ。夢の中で書を認めているのか虚空に筆を走らせる仕草をする。また、花の稽古をしているのか虚空に花を活ける仕草をする。寝言なのか譫言なのかあやふやな口調で話そうとするが、酸素マスクの中では聞き取ることが出来ない。時折目を開けるが何も見てはいないようだ。そんなとき、窓の外を見やると比叡山にかかる夕焼けの茜雲が美しく輝いていた。

「お母さん、夕焼け雲が綺麗だよ。」

と、眠り続ける母に話しかけた。すると、それまで瞑っていた母の目がカッと見開き、首を擡げて窓の外の茜雲を見つめたのだ。そして「きれい・・」という風に目を細めると、再び瞼を閉じた。その瞼は2日後に息を引き取るまで再び開くことはなかった。

 7月に入って早々梅雨が明け、連日猛暑が続いていた。京都で看病を続ける姉からの電話では母の病状が思わしくなく、出来るだけ時間を見つけて帰ってくるようにとのことだった。帰りたくても帰れない宮仕えの辛さだったが、ウイークエンドには片道500キロの道のりをバイクで飛ばして病院に馳せ参じた。そんな折、8月4日の土曜日、バイク仲間の集まりで木曾駒ヶ岳のキャンプ場に行きはしたのだが、楽しく騒ぐ仲間の輪の中にはどうにも入り込める心情ではなかった。一刻でも早く京都に帰りたい気持ちを抑えて、ひたすら膨大な量のタマネギの皮を剥きキャベツを刻んで料理の仕込みをしていた。テントの中で眠ろうにも思い浮かぶのは母親の事ばかり、まんじりともしないで黎明を迎えてしまった。

 朝になり京都方面に帰るバイク仲間と連れだって中央道から名神高速道路を走ったのだが、如何せん逸る気持ちも手伝ってついつい先頭をかなりのスピードで飛ばしてしまった。そして、その日の夕刻、大津の病院にむさ苦しい格好で駆け込んだ。病室の前には消毒液とマスクが用意してあり、いきなり入室するのを躊躇ってしまう。まず手を石鹸で洗って全身に消毒用アルコールを吹きかけ、手のひらも消毒してからマスクをして病室のドアを開けた。

「やっほー、き〜たよ〜」

体を起こして窓の外をぼんやり見ていた母は、

「なんや、来たんか。バイクでか? 暑かったやろ?」

酸素マスクをしてはいたが、嬉しそうに微笑んで息子を迎えてくれた。頭髪は殆ど抜け落ちて、後頭部の所々に黒い小さな髪の毛が束になって下がっている。ステロイドの副作用か顔が丸く浮腫んでいるようだった。

「見てみぃ、お母ちゃんなあ、もう1ヶ月以上何にも食べてへんのやでぇ。この点滴だけで生きてんねん。すごいやろ。」

何だか自慢げに話す母が霞を食べて生きる仙女に見える。

「はよぉ退院したいなあ。来年の3月にはお花の会するさかいな、その時、書も展示するでぇ、『雲遊』の新しいアイデアがあんねん。あそこの比叡山にかかる雲見てたら面白いでぇ。いろいろ形が変わるさかいなぁ。」

自分の病気は癌ではないと信じ込んでいる母に、何度もアガリクス製剤やキチンキトサン製剤などを飲ませようとしても

「これガンの薬やん。私はガンと違うから飲まへんでぇ」

と頑として受け付けない。そんな母に、全身癌に冒されもうすぐ死ぬんだよと、一体誰が言えようか。

「ああ、眠たぁ、ずーっと走りっぱなしで疲れたわ。ちょっと向こうのロビーで寝てくるなぁ。」

と、苦しい嘘を言いながら病室を出ようとすると、

「ここで寝たらええやん。」

と引き留める。

「トイレにも行きたいしな。」

と、溢れる涙を見せないように病室を飛び出し、廊下の端でしゃがみ込んでしまった。涙が眼鏡の内側に溜まり、やがて床に滴り落ちて小さな水たまりを作った。しばらく涙の流れるままにした後、マスクで床を拭い、気を取り直して再び病室に入っていった。

「長いトイレやなぁ。大きい方か?」

大きなお世話だ。やがてベッドの背もたれを倒して眠りたいというので、体を支えながらスイッチを押していると、

「お母ちゃんなぁ、もう、80歳で寿命かもしれへんなあ・・・。なんか、そんな気がすんねんなぁ、このごろ。どう思う?」

そんなこと聞かれて「はい、そうでんな。」などと答えられるはずがない。

「アホなこと言いないなぁ。そやけど、死ぬんやったら死ぬで、ちゃんと置きみやげ頼むでぇ。字心と絵心をボクにちょうだいや。下心ばっかりくれても役に立たへんやろ。」

「ははは、ほんまになあ、あんたはお母ちゃんに似んとミミズがのたくったみたいな字ぃ書くし、絵も下手やもんなあ。そやけど、デッサンなんかはあんた誉められてたんやで。そのあと色塗ったら全然あかんかったけどなあ。つまり色音痴っちゅうこっちゃ、あははは。」

咄嗟に死を茶化すことで、その場は切り抜けた。

そうこうするうちに長姉と姪が現れた。「なんや、来てたん?」と、病室に入ってくるなり、

「お腹空いたなぁ、何か買ってきてぇ。」

病院に来る途中で買ってくればいいものを、長旅で疲れているオヤジに行かせようとする。すると母が気遣って、

「まあ、そげにしちゃんなるなぁや、疲れとるんだしきゃぁなぁ、可哀相げに・・・」

「そんなん、おかあちゃんのしんどいのに比べたら軽いもんやん。そやけど、何で立雄が来たらそんなに元気になんのん? ほんま、人騒がせな婆さんやなぁ。」

姉が軽く文句を言うと、母は少し戯けて言った。

「へっへっへ、えろうすんまへん、悪うござんした。」

事実、姉たちが病室についている間は、母の病状はかなり悪く、常に苦しそうにしていたという。なのに、息子の顔を見ると俄然元気になってしまうらしい。やがて主治医が病室に入ってきた。そして脈をとったり触診をしている間、姉たちが居ないのを見計らったように母は言った。

「先生、この子がいると楽ですねん。何でかしらんけど、娘たちがいるより心が安まりますねん。昔、この子が小さい頃、私が放浪の旅をしてるとき、いっつも一緒でしたんやわぁ。ほんでね、私がしんどうてもこの子がニコーっと笑いかけてくれるもんやさかい、元気付けられましてん。」

「なんや、そやから、ボクは今になって人生を放浪してるんやな。」

「へへへ、そやそや。」

冗談交じりの会話が弾んだのも、この時が最後だったようだ。

「ほな、明日の朝ちょっと顔出してから帰るしな。」

病室に泊まる姉を残して家に帰る時、寂しそうな表情が妙に気になった。

茜雲

<身をつくし 心つくして育つ子は 親につくすも 返す時なし>

 母と子は死ぬまで臍の緒で繋がっている。子宮の中にいる時から生まれ落ちるまでは肉体的に繋がれているが、それからは精神的な臍の緒の如き心のつながりが存在している。離れていても同じ頃に同じような夢を見、同じような体調に陥って寝込んでしまうこともある。8月も半ば、大津の病院で放射線治療を施したとき相当の苦痛を伴って吐血をしたと連絡を受けた。折しも私自身東京で勤務中、急に悪寒が全身を走り、立っていられなくなってしまった。急遽早退して家で床に伏してしまったが、その時を同じくして母親が病床で苦しんでいたのだ。駆けつけようにも体が言うことをきいてくれる状態ではない。もどかしい思いの中、布団の中で悶々としていたのだった。

 その日は超大型の台風が日本列島に上陸しようとしていた。新幹線で京都に向かおうとするが、何時止まってしまうか不安が募る。新横浜から乗り込む時には、岡山から先は不通になっていた。昼過ぎに何とか京都に辿り着き、一旦家に立ち寄ってから病院に行った。病室に入ると、母は2週間前とは全く別人のような人相になっていた。少し残っていた頭髪は全く無く、ステロイドの副作用で浮腫んだ顔は30年前に亡くなった祖母の顔とそっくりになっていたのだ。更に、意識はあるものの、呂律のまわらないあやふやな口調でしか話せなくなっていた。一日中苦しむものだから、モルヒネを投与しているとのこと。前夜は一時、脈も呼吸も止まりそうになり、親不孝の子供らが手を握り涙ながらに励まし叱咤し懺悔したら不思議と持ち直したという。そんな危篤状態である筈なのに、駆けつけた息子の顔を見るなり、

「なあ、この前話してた薬剤師さんと会ってみぃなぁ。気にいる気にいらん は会うてみてから決めたらええやん。」

どこまでも遣り手婆さんを貫くつもりらしい。やがて姉が連絡を取って病院内の別の場所で落ち合うことになった。見ず知らずの男女が瀕死の病人の願いを聞き入れて見合いをすることになった訳である。

「初めまして。ごめんなさいね、こんな状況でこんな場所で、別に会ったからといって付き合わなくてはならないってことはないですからね。」

さっさと予防線を張ってしまった。沈痛な面もちで悲痛な心境でお見合いなんか成立する訳がない。とりあえず一度病室に来てもらって、会ったのだという事実を母に見せる必要があろう。少し時間をずらして彼女が病室に現れた。母は一応お見合いが成立したことを喜んでいるようだった。当人同士の思いは全く無視してはいたが。

 その時を境に母の病状が急に悪化してしまった。意識を殆どなくしてしまい、肝機能も低下して全身黄疸が現れてきたのだ。最早家に帰る時間も惜しまれる。姉たちと交代で徹夜の看病が続いた。意識が無い分、片時も目を離すことができなくなった。ともすると、酸素マスクを外してしまったり、点滴のチューブを絡めたりしてしまうのだ。ずーっと眠り続ける姿を見ていると、いろいろな夢を見ているらしい。楽しげに笑ったり、何やら手を動かしている。華道家としての夢見か虚空に花を活ける仕草をする。書道家としての夢見か虚空に筆を走らす。雲と書いているらしく筆の流しを気にしてつぶやく。そして今、長い夢の中、雲に乗る少女になる。今日か明日か己の浅き夢は見果てることはなし。

 看護婦が時折見回りに来て、体温や血圧を測っていく。データをとっているのだが、本人にとってはせっかくの夢見を邪魔されるのかあまりいい表情をしない。

清拭をするからと看護婦が病室に入ってきた。一人でできないからと手を貸す。母のパジャマを脱がし体を拭いてやるのだが、幼い時吸った乳房は小さくしぼみ、齧った脛も骨の形を残すのみ。

幼い頃、寒い時期に添い寝をし、「アンヨくちゅん」と言って、冷えた足を温かく挟んでくれた太股も最早なし。抱き抱える母の背中が思いのほか重い。「なんやえらい重たいなあ」と、話し掛ける言葉が途中から嗚咽に変わってしまう。涙が母の頬に落ちてしまった。涙の訳を知ったのか、じっと見つめてくれた。

もっと生きてほしい・・・。

<母心 涙とつたう たなごころ>

 確実に近づく死を前に混濁した意識の中から手をさしのべる。その手をとると母の思いが奔流のごとく我が心に満ち、溢れる涙とどむることなし。母の手は実に若々しく美しい。三〇代、いや、二〇代といってもいいほどシミ一つない娘のような手をしている。普段から「美しいものを生み出すのは美しい手からやろ」と炊事をするときなどは必ずゴム手袋をしていた。この美しい手で繊細な「書」を書き、花を生けていたのか。実際、母の手にかかると魔法のように花が生き生きとした姿で花器の上に生かっていた。文字に、花に、「躍動美」を与える「母の手」だった。

 病室で姉がやたら病人の周りを動き回り、ガサガサ音を立てると煩そうに目で追う。はっきりしない言葉で何か言おうとしても意思が通じないと悲しい表情をする。看病をする時は、ただ黙って見つめているといい。相手の気持ちを思いやることで、何を求めているかが自ずと分かるものなのだ。「犬や猫じゃあるまいし!」と言うが、こういう時こそ犬や猫のように言葉無くして心を通わせることが大切なのではなかろうか。人間の言葉は、時によって鋭い凶器になってしまう。異なった意味合いの言葉は誤解を生み、心を傷つけてしまう。優しい気持ちで思いやりをもって接することが一番の看病なのだ。

コスモス

 <辛くとも 幼子の笑み思い出し 涙滴る微笑みがえし >

 目が合って、笑顔を見せると苦痛の中から喜色の笑みを返す。幼いころ、一緒に放浪の旅をしていた時と同じようにニッコリと笑いかけると、母は当時を思い出したのか嬉しそうに笑った。酸素マスク越しではあったが、その微笑み返しは私の目から涙を溢れさせるには十分だった。

 8月30日の深夜、姉二人と姪と私の4人で病室に固まっていた。母の反応は殆ど無くなっている。だが、このまま全員がいるといずれ誰かが倒れてしまう。そんな切羽詰まった状態だった。私に至ってはまるまる2日近く付きっきりで殆ど眠っていない。とりあえず一人残して帰宅し、眠ることにした。何時でも連絡できるように私の携帯電話の電源を入れておいた。2時頃へとへとになった体を横たえたものの、どこかで醒めている部分があった。そして午前5時、枕元の携帯電話が鳴った。

「血圧が60まで落ちたんや。危ないかもしれへんから、すぐに来て!」

二階に眠る姉と姪を叩き起こし、借りっぱなしにしているレンタカーで病院に駆けつけた。

 ベッドの上で母は静かに眠っていた。1分間に10回の呼吸は静かに浅く、3秒の静止状態がやけに長く感じられる。私が右手を握り、姪が右腕に縋り、姉たちが左手を握っていた。どんなに握る力を加減しても握り返してはこなかった。

「お母ちゃん、はよう退院して3月にお花の会しようよ。私たちだけやったら、何にもできひんやろ。なあ、お母ちゃん、はよう元気になってえなあ!」

涙ながら耳元で叫ぶ姉。

「おばあちゃま、私淑やかないい子になるから、お願い、元気になって。」

腕に縋って涙をこぼしながら話しかける姪。

「私、お母ちゃんに習って書道の勉強するから、はよ帰ってきてえなあ。」

みんなそれぞれ苦しい嘘とは分かっていても、励ますように訴えていた。握っている手が次第に冷たくなってくるのが分かる。姉が必死で冷たくなってくる手を擦っていた。10回だった呼吸が8回になり、6回になり、間隔が次第に長くなってくる。あれだけ必死に励ましていた姉たちだったが、

「お母ちゃん、親不孝な子供たちばっかりで堪忍な。もう、ええよ。お疲れさま。」

「お母ちゃん、ありがと、ほんまにありがとう。」

引き留めるのを諦めたように別れの言葉を口にした。
時間を見るために音を消したテレビが8時50分を示したとき、母は少し大きく、そして少し長く呼吸をした。1,2,3,・・・5秒経っても10秒経っても再び胸は動かなかった。

「お母さん、ありがとう。・・・さよなら。」

私が握っていた手を胸の上に置き、医師を呼びに行こうとすると、姉が言った。

「もう、逝ってしもうたん?」

その時、腕に縋っていた姪が叫んだ。

「まだ、心臓動いてる!」

慌てて病室を飛び出し、ナースセンターに行くと、そこでは医師や看護婦がモニターをじっと見つめていた。

「呼吸は停止しましたが、心臓はまだしっかり動いてますね。」

モニター上には鼓動の黄色い波形が80を示して波打っていた。だが、青い呼吸の波形は長い直線で沈んでいた。病室にモニターを持ち込んだ。

「心臓が止まったら、心臓マッサージをしますか?」

医師が問うたが、

「いいえ、もうこれ以上母を苦しめたくないから結構です。」

せっかく楽になって安らかな眠りに就いたのだ。

80,60,・・・40・・30・・15・・・0・・・・

午前8時57分、脈拍の波形は直線を示した。

「お婆ちゃま、死んじゃあいややぁ・・・!」

孫の必死の叫びに7分間心を残したようだった。

「お母さん、ドラマチックな死に方やなあ・・・かっこエエよ・・・」

家族全員に手を握られ、看取られて静かに息を引き取る母の姿は事実ドラマのようだった。泣き伏す姉たちや姪の横で、男の仕事をしなければと、

「みなさん、いろいろとありがとうございました。」

立ち並ぶ医師や看護婦に挨拶をしたつもりだったが、二の句が継げず、嗚咽になってしまった。

 最後の清拭を済ませ、着替をして退院をする時は、地下の裏口からだった。大勢の看護婦が見送りに来て、皆涙を流していた。聞けば、母は病院にいても動ける時は他人の世話ばかりしていて、病室で看護婦や他の患者に書や生け花の指導をしていたという。全く、死ぬまで御節介焼きの人間だったようだ。

  病室に居る間は歳相応の老婆の顔をしていたのだが、家に戻り、書や華の稽古場にしていた離れの座敷に寝かせる頃には、元気な頃の若々しい顔に戻っていた、かすかに口元は微笑んで。

「お母さん、綺麗な顔になってるやん。皺ものうなって・・・、眠ってるみたいやなあ・・・。」

死に化粧を施しながら涙を流す子供たちと孫は、まだ母の死を信じることができないでいた。大きな息子は3日間添い寝をして、ただひたすら枕を濡らし続けたのだった。そして、葬儀を済ませ、斎場で骨になったのを見たとき、ようやく母の完全な死を認識した。もうあの優しい顔にも会えない、明るい元気な声を聞くこともできないことを。

 数週間後、黄金色に輝く稲穂の中にあかべこGSの姿があった。フロントスクリーンの内側には可愛くちょこんと座った猫のべべとにこやかに微笑むベベババの写真が並んでいる。見上げる空には夕日に染まる茜雲が棚引いていた。巨漢のライダーは、写真に向かって囁くと軽く左足でシフトペダルを踏み込み、新たなる心の旅へと駆けだしていった。

「べべちゃん、お母さん、これからはずっと一緒だよ。」

母とベベとあかべこ


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